2015年08月17日
清水敏男監修
「未来食 食に関する3つのストーリー」
Eating in Future 3 Stories on Eating
謝琳+間島領一+品川明
会期:2015年9月3日(木)〜11月24日(火)
会場:LIXILギャラリー
写真上:謝琳 「Dune」 2011 450 × 320 × 80 cm 砂糖、卵、発泡スチロールなど 撮影: Florian Claar |
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写真右:間島領一 「まな板に乗ってしまった深海魚」 1987 21.5×42.5×16cm Mixed Media 個人蔵 |
LIXILギャラリーは2014年9月より「クリエイションの未来展」と題して、日本の建築・美術界を牽引する4人のクリエイター、清水敏男氏(アートディレクター)、宮田亮平氏(金工作家)、伊東豊雄氏(建築家)、隈研吾氏(建築家)を監修者に迎え、それぞれ3ケ月ごとの会期で、独自のテーマで現在進行形の考えを具現化しています。
第5回目となる今回は、清水敏男氏(アートディレクター)による「未来食 食に関する3つのストーリー」を開催します。食をテーマに創作活動を続ける2名のアーティスト、謝琳(シェリン)氏と間島領一氏による作品展示と"味わい教育"を専門分野とする食の研究家・農学博士 品川 明氏によるトークイベントを通して、未来の「食」について三者三様のストーリーを語ります。
TOSHIO SHIMIZU ART OFFICE代表取締役、学習院女子大学・大学院教授、キュレーター、美術評論家。1953年東京生まれ。ルーヴル美術館大学修士課程修了。東京都庭園美術館、水戸芸術館現代美術センター芸術監督を経て、現在は展覧会やアートイベントの開催、パブリックアートのプロデュースを中心に活動している。最近の主な活動に、「上海万国博覧会日本産業館トステムブース・アートディレクション」、「東京ミッドタウン・アートワーク」、「豊洲フロント・アートワーク」、「名古屋ルーセントタワー・アートワーク」、「いわて県民情報交流センター・アートワーク」、「ミューザ川崎・アートワーク」、「多摩川アートラインプロジェクト」等がある。
危険に満ちた現代世界で最も危険なのは「食」ではないでしょうか。 軍事紛争、地球温暖化、環境汚染などは人間の外部から作用する危険ですが、「食」の危険は人間の内部からやってきます。 しかし人類は生き延びるために、未来の食を考えねばなりません。 2名のアーティスト(謝琳、間島領一)による作品展示と1名の食の研究者(品川明)によるトークイベントを通して、未来の「食」についてそれぞれのストーリーを語ります。
(清水敏男)
│開催概要│
清水敏男監修「未来食 食に関する3つのストーリー」
Eating in Future 3 Stories on Eating
│関連企画│
トーク 「謝琳(美術作家) × 間島領一(美術作家) × 品川 明(農学博士)」
※この他にもトークを予定しています。決まり次第ホームページにてご案内します。
│展覧会の見どころ│
謝琳
「Dune」 2011
450 × 320 × 80 cm
砂糖、卵、発泡スチロールなど
撮影: Florian Claar
食をテーマとする現代美術作品とトークイベントを開催
会場では、謝琳氏による写真作品と、間島領一氏による立体作品を展示します。両氏とも長年にわたり「食」を創作のテーマのひとつとして取り上げてきました。
謝琳氏の作品「Dune」は、発砲スチロールを躯体に砂糖と卵白でつくられたインスタレーションを撮影したものです。
謝琳氏はこれまでも、お菓子で部屋の一部を実寸大に構築した「Mellow House」や私たちがいつも食べ慣れている食品を別の色彩に替えて提案する「晩餐会」など、「食」の視覚的、文化的イメージを覆すことを作品の手法としています。本展では、正と負の両義的なイメージを持つ砂糖をテーマにした作品を展示します。砂糖でつくられた都市や自然の光景に人間の恣意を重ねます。
間島領一氏は、TVを観ながらラーメンを食べる個食を風刺した「ヌードルボーイ/ガール」、ブロイラーやクローン、遺伝子組替をテーマにした「食欲連鎖」展など、カラフルでポップな明るさの中に批判とユニークさがあふれた作品を制作してきました。特に、離乳食の子供と流動食の老人を同時に扱った「まんま」(幼児語でママと食べ物を指す同音語)では、生と死の中での「食」を提示して強い印象を残しました。本展では、人間の欲望が際限なく拡張していくことをテーマとした作品を展示します。
品川 明氏は、農学博士として「味わい教育(フードコンシャスネス論)」を専門に、環境教育、水圏生物化学・生理生態学などを研究範囲としており、しじみやアサリの研究者としても生息環境の重要性を説いています。
本展では、会場でメッセージやコメントをパネル展示するほか、トークイベントを複数回開催します。*決まり次第ホームページにてご案内します。
│監修者からのコメント│
「深海の幕の内」
間島領一
“A deep-sea fish Makunouchi bentobox”
1986 21×27×7cm
mixed media
個人蔵
「未来食」 清水敏男
「食」は人間のインフラである。崇高な思想も、精緻な科学技術も、美しい絵画・彫刻も人間が作り出すのであるが、その人間は「食」がなくては存在できない。
人間はどのように食を美術で表現してきたのだろう。
今のオランダ、ベルギーあたりでは17世紀に食べ物を描いた絵画を盛んに産出した。それらの絵画は、いかにも食欲をそそる食べ物がみずみずしく描き出されている。果実、パン、肉、魚、野菜などすべてが単なるモノとしてではなく、食べ物として描かれていることは、いかに「食」に執着していたかを語っている。それらの絵はおそらくブルージュやアントワープ、アムステルダムなどの都市の家に飾られ、遠くはパリやマドリッドにまで運ばれた。今では各地の美術館に収蔵されている。
これらの絵画は虚栄や儚さのアレゴリーであり宗教的な意味がある、という解釈が主流だが、ベルギー美術の専門家である森洋子氏は、花の静物画について美しい世界をつくった神への賛美であると言っている。食べ物を描いた静物画も、宗教を装いながら、食べ物への賛歌、喜びとして描かれたのではないだろうか。しばし深刻な惨状をもたらした戦争と病苦の中世が終わり、安定して食べ物が手に入るようになった時代が到来したその喜びの表現であると考えれば食べ物絵画の隆盛に納得がいく。
ジャック・アタリによれば、資本主義は13世紀に運河が発達したブルージュで産声をあげ、16世紀はアントワープが繁栄し、17世紀から18世紀はアムステルダムが世界の海を制覇した。この辺りはかなり豊かだった。
しかし儚さがその意味だとする解釈は捨てがたい。食べ物はすぐに腐敗するからである。
かつて20年ほど前に韓国の作家チェ・ジョンフアの食べ物の彫刻をプロデュースしたことがある。それはレストランのショーケースにあるような食べ物の精巧な模型と本物の食べ物を皿に盛り、そのまま放置する、という作品だった。数日後に本物の食べ物は腐敗しはじめ、やがてドロドロとしたカビの山に変貌する。その一方模型の食べ物は、はじめはどぎつく人工的質感を発散していたが、やがてカビの山の合間で美味しそうな輝きを発し始めたのだった。
人間と「食」の関係は、いかに「食」を腐敗から守り、安全に流通させるかという問題を克服するところにあったのではないか。ブリュージュの運河から現在のコンビニのシステムまでその要は同じである。
ところが現在はそれが大きな問題になってきている。それは保存のために大量のケミカルを使うようになったことである。17世紀フランドルの静物画に描かれた食べ物はもはや儚さを心配することはない。保存料が守ってくれる。チェ・ジョンフアの作品ももう成り立たない。食べ物は腐敗しないのだ。
さてこの度は3人の登場人物、2人のアーティストと1人の研究者がそれぞれの「未来食」について語るという企画である。食べ物が腐敗しない時代の先にどのような「食」が可能なのだろうか。
ポップアーティスト間島領一のアートの核心にはつねに「食」があった。 このテーマほどポップなものはない。それは生命を維持するために人間の起源から人類の最も近いところにあったからだ。ところが「食」はアートから遠いところにあった。アートが自然を超越する存在に捧げられてきた長い歴史が、「食」とアートとの間に距離をつくってしまった。間島はそれを必死に手繰り寄せ、「食」の面白さ、滑稽さ、深刻さ、不思議さを表現する。
謝琳もまた「食」を扱うアーティストだがアプローチは全く異なる。
素材の色彩ごとに料理が出てくる晩餐会、ブルーのケーキ、クッキーの家、巨大なウエディングケーキのようなタワービルが林立するインスタレーションなど、常に食べ物そのものを使って表現する。
食べ物は言うまでもなく生命の可能性を維持するものだ。しかし食べ物はそう単純ではなく、文化の装いをまとっている。謝琳は「食」の文化性を巧みについてくる。食べ物にまつわる常識を裏切り亀裂を生じさせ、社会における「食」の本質を一瞬の光芒に露わにする。
品川明は食べ物の達人である。現在食べ物をもっとも熱心に考えている研究者のひとりである。食べ物が腐らない現代にあって、腐るべき食べ物の現代的もしくは未来的なあり方を提言することだろう。品川は「おいしい」という食べ物本来の価値を考えることで「食」の正しいありかたを求め、そしてその「食」が作り出す「からだ」と「こころ」のことを考えているに違いない。
食べ物が腐らない時代は、果たして幸せな未来なのか。今こそ「未来食」を考える時である。
│品川 明氏からのコメント│
現在の食を見つめ直し、過去の食の大切さを発見することから始まる未来食
私たちは食をどれくらい知っているだろうか?食べものを食べる時、食べものを感じて食べているだろうか?食べものが私たちに感じて欲しいことがあるのではないだろうか?
経済の発展、利便性の追求、食の工業化などによって、日本人は食に対する多くの価値を享受している。しかし、何か目に観えないものを感じ取れなくなっているのではないだろうか。失ったものとは一体何だろう?
今、自分が口にしている食物が、どこで生まれ育ち、どのような繋がりから食卓に上がってきたのか。また、なぜそのような色や形を呈し、なぜそのような匂いを発するのか。さらには観て触れて嗅いで聴いて食べた時に体が何を感じたのか、食に対するあらゆる意識や感覚を使うことを忘れてはいないだろうか。自身に備わっている能力としての五感を呼び起こし、感性を研ぎ澄まし、沸き起こる想いを確かめることで、自身が産んだ言葉が生まれ、他者とのコミュニケーションも楽しく円滑になる。
食べるものは物としてではなく、命あるものとして捉え、おいしさの源がその食べものの命の輝きにあることを実感してほしい。命の輝きとは、その生きものが、生きている場所で、どのように生きているのか、いろいろな知恵や工夫が長い歴史の中で培われたありさまである。食べるものは、当たり前に、そこにあるものではない。地球誕生以来の長い時間と数え切れない命の繋がりがあって今在るものである。奇跡的であり、尊い、有り難い存在である。そして、私たちはその有り難い命を頂き、私たちの命を繋げている。
我々は一見多様な食べものを食べているかのように思う。しかし、食の調達の場が変化し、旬や季節感が失われ、食の形骸化が進み、食に対する文化的価値も喪失している。食べものの種類が多くあっても、味わいの多様性がなくなり、均一で同じような味の食が多いと感じる。その結果、徐々に五感力が衰え、自分と自分を取り巻く世界を認識するために必要なかけがえのない、ゆっくりとした世界を味わうのに適した感覚は、驚くほど貧困になっている。
食の表層を感じるだけでなく、食の中に隠されたものや事柄を感じ取るために五感や心で食を味わうことにより、その価値や背景を理解し、食を自律的に選択できる力、さらに、自分で思考する生きる力、人生を豊かに味わう力、文化や未来を創造する力を培うことができる。そのためには、まず、季節感ある郷土の食や家庭料理が大切である。郷土で培った郷土の食は文化的、教育的、環境的、社会的、経済的な価値や意味が含まれる。
食には多くの物語がある。おいしさには多くの理や物語がある。食べものをきちんと食べること、食べものをじっくりとゆっくりとした食べかたによって、五感や心で味わうことによって、情報に捉われない自分自身の心の声を聴いて、自分に正直に応えられ、食を感じ取る能力が身につく。もっと、感性を磨き、自分自身に自信を持つことが未来の食を考える際に大切ではないだろうか。
│作者略歴│
謝琳 Chelin
おもな展覧会・受賞
間島領一 Majima Ryoichi
おもな展覧会
品川 明 Shinagawa Akira
1955年、宮城県石巻生まれ。農学博士。学習院女子大学教授。専門分野は味わい教育(フードコンシャスネス論)、環境教育、水圏生物化学・生理生態学、ファシリテーションスキル、コミュニケーション論。
「自分の味わい力を確かめるとともに五感力や味覚力を発展させ、食べ物の味わい方やその背景を知ることが大切である」という視点から、あらゆる世代に必要な楽しくて美味しい味わい教育と食物教育を実施し、食物の大切さや本来の価値を認識し、生き物の命や生き物が生息している環境を大切にする人を育てることを目標としている。
著書に「生活紀行〜しじみの話」(学習院新書)、「アサリと流域圏環境」(恒星社厚生閣)など。